本音

 

わたし人のマネをするのが苦手。

カウントや音に合わせて同じ向きに手を出し、ポーズをとり、振りをしっかりと緻密に揃えたりするの、超苦手。

小さい頃したダンスと言えば全部そうやった。

そしてダンスというものは、年を重ねるごとにクオリティを要される場面が増え、さらに振りは緻密になり、多人数でやるものにいたっては同じ角度に身体を揃えたり、同じタイミングで動きをきめたり、視点が厳しくなってくる。

それらを乗り越え覚えられれば、後に楽しさ、やり甲斐、達成感で溢れるのだろうけど、

それになるまでの作業は、わたしはあんまり好きじゃない。

だって「時間」を迫られるから。

「この時間までに覚えましょう」があると、急いで覚えなきゃと焦ってしまう。

さらにそれらを多数で行うとなると、緊張感が増し、どうやらそうゆう空気が苦手のようだ。

 

 

一方で、ダンスはわたしを自由にしてくれた。

28才で本格的におどりに関わる環境に身を入れてみた。

いつもヨーガでゆるめていたわたしの身体が、その時ばかりは日々「ダンサー」として実践の吸収と排出を繰り返す。

それを続けたら生理が止まり、歯も抜けて、虫歯11本になり、体重減少であばら骨は出てくるし、すんごく可哀想な状態になった。

だけれど、そこで舞踏にも出会ったし、憧れだったコンテンポラリーダンスもすることができた。

ここで体感したすべての出来事は今のわたしに確実に繋がっている。

 

 

ライバルとか、いない。

こうなれたらいいなぁ、も特にない。

なぜなら踊ることはわたしにとって排出作業だから、

わたしのカラダから出たものを変えることも、磨くことも、必要がない。

そのまんま。

あえて言うなら、それ以前の問題だ。

自分がどうゆう気持ちで日々暮らしているかとか、どんなことで感動しているかとか、

そんなのが、排出作業のとき=踊り 全部でるのだと思ってる。

ユーモアとロマンと孤独大事。

 

こんな感じでしているわたしの動きや観念。

もしそれをおどりと呼んでもOKならば、

わたしは踊りが大好きで、切っても離せない存在なのだと思う。

そしてわたしはとても快適でわたしらしいと思えるわたしのダンスと出会えてすごく幸せ。

ダンスは、「わたしはわたしでいい」ってことを教えてくれた。

わたしはわたしでいたいから、これからも踊りをしていくんだと思う。

誰かへのごめんなさいとか、
誰かへの祈りとか、
好きな人への告白とか、
悲しい想いの浄化とか、
なんだか分からないことを明確にすることとか、
届けたい想いとか、
心からありがとうっていう気持ちとか、
どうにもならないけどどうにかしたいこととか、
不条理に感じた出来事への気持ちの行き場とか、

そうゆうのが、ぜんぶまるごとわたしの踊りなんだと思います。

 

 

 

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