振り返ることなく進んでもう8月

 

です。

 

7月はパフォーマーとして、
ヨーガインストラクターとして、
アートモデルとして、
ダンサーとして、

息をした時間がたくさんあった。
生きてる実感がいっぱいあった。

 

その中でわたしというものは色んな表情をする。
きっとヨーガの時にでる笑顔と
パフォーマーの時にでる笑顔は
全然ちがうように思う。

 

悔しすぎて泣いたときもあった。
不甲斐なさで暗い表情にもなった。

 

ただでさえでかい目を
これでもかというくらい見開いて
わざと鬼神のような顔をしてみたときもあった。

 

さまざまなわたしの職業は
わたしというものを色んな形へと変容させ
より柔軟に素敵な可能性を引き出してくれる。

 

そんな風にさせてくれる周りにいるみんな、
いつもわたしを面白がってくれる人たち、
サポートしてくれる人たち、
新しく顔を合わし出会えた人たち、

そして、

感動を与えてくれた景色、
感動を感じさせてくれるわたしの身体、
感動の場面をクリエイトしてくれた人、

いつでも感謝している。

 

今月はどんな自分をクリエイトしていけるかな。

 

中毒症状のように

 

中毒症状のように、

わたしは今踊りをしたくてたまらない。

このカラダで表現をしたくって、たまらない。

自己満足で外に飛び出してただやる。のではなく、

誰かが側にいて、その人も表現をしている。

誰かというのは人に限ったことじゃない。

山だって同調してくれるし、川も呼吸する。

相互作用でどんどん広がっていく宇宙の輪っかみたいなのが

常に膨大していく感じ。

 

気が変わりやすい性質だから

この気持ちはこの気持ちで明日は分からない。

でも大切にしたい、大事な気持ち。

 

本音

 

わたし人のマネをするのが苦手。

カウントや音に合わせて同じ向きに手を出し、ポーズをとり、振りをしっかりと緻密に揃えたりするの、超苦手。

小さい頃したダンスと言えば全部そうやった。

そしてダンスというものは、年を重ねるごとにクオリティを要される場面が増え、さらに振りは緻密になり、多人数でやるものにいたっては同じ角度に身体を揃えたり、同じタイミングで動きをきめたり、視点が厳しくなってくる。

それらを乗り越え覚えられれば、後に楽しさ、やり甲斐、達成感で溢れるのだろうけど、

それになるまでの作業は、わたしはあんまり好きじゃない。

だって「時間」を迫られるから。

「この時間までに覚えましょう」があると、急いで覚えなきゃと焦ってしまう。

さらにそれらを多数で行うとなると、緊張感が増し、どうやらそうゆう空気が苦手のようだ。

 

 

一方で、ダンスはわたしを自由にしてくれた。

28才で本格的におどりに関わる環境に身を入れてみた。

いつもヨーガでゆるめていたわたしの身体が、その時ばかりは日々「ダンサー」として実践の吸収と排出を繰り返す。

それを続けたら生理が止まり、歯も抜けて、虫歯11本になり、体重減少であばら骨は出てくるし、すんごく可哀想な状態になった。

だけれど、そこで舞踏にも出会ったし、憧れだったコンテンポラリーダンスもすることができた。

ここで体感したすべての出来事は今のわたしに確実に繋がっている。

 

 

ライバルとか、いない。

こうなれたらいいなぁ、も特にない。

なぜなら踊ることはわたしにとって排出作業だから、

わたしのカラダから出たものを変えることも、磨くことも、必要がない。

そのまんま。

あえて言うなら、それ以前の問題だ。

自分がどうゆう気持ちで日々暮らしているかとか、どんなことで感動しているかとか、

そんなのが、排出作業のとき=踊り 全部でるのだと思ってる。

ユーモアとロマンと孤独大事。

 

こんな感じでしているわたしの動きや観念。

もしそれをおどりと呼んでもOKならば、

わたしは踊りが大好きで、切っても離せない存在なのだと思う。

そしてわたしはとても快適でわたしらしいと思えるわたしのダンスと出会えてすごく幸せ。

ダンスは、「わたしはわたしでいい」ってことを教えてくれた。

わたしはわたしでいたいから、これからも踊りをしていくんだと思う。

誰かへのごめんなさいとか、
誰かへの祈りとか、
好きな人への告白とか、
悲しい想いの浄化とか、
なんだか分からないことを明確にすることとか、
届けたい想いとか、
心からありがとうっていう気持ちとか、
どうにもならないけどどうにかしたいこととか、
不条理に感じた出来事への気持ちの行き場とか、

そうゆうのが、ぜんぶまるごとわたしの踊りなんだと思います。

 

 

 

環境整備

 

自分を愛してあげるということは、

外界のものに左右されず、自分の本音を確認しながら、それを大切に行動できること。

優しい呼吸をしてあげるということ。

だから、本来そのまんまの状態でいられれば調和しているはず。

何を頑張りすぎなくたって、何かに苦しみを感じなくたっていいもの。

だけど、刺激が少々強めなこの地球上では、

本来そのまんまでピッカピカの私たちの魂に霞がかかって、

”本当”が見えずらくなる。

だから、何かで纏ったり、物を多く所有することで、満足をしている気になってる。

これは自我が出てる証拠。

その反面、何かの誘導によって、調和を保てる環境になったとき、本当に至福感で満たされる。

至福というのは、感情ではなく、状態。その人自身。

 

 

今の地球人は、このバランスをとりながら生活している。

私も自分が大事なことわかっているはず。

なのに、ついつい甘えが出て、違った方向へずるりと進んでしまいそうになると、最終的に罪悪感でいっぱいになる。

少しずつ、すこしずーーーーつ、変容していく自分に気づいてあげることが大切だ。

 

「私が私をつくっている」感覚から

「私は私で創られている」の感覚へ

この感覚に気づけると、いつでもトキメキと感謝いっぱいの時間を過ごせる。

一番近い存在の「わたし」

まずはそこから環境整備。

 

そのまんまを見つめる、ということ。

 

物事の本質というのは、先入観なく、ただただ「それ」を見つめるだけの行為の中にある。

そして「それ」を、言葉に出してしまうと、既に違うものになってしまう。

だから、「本質を見つめたことにはならない」

ただ「感じる」だけでいいのだ。

そうやって、ただ見つめて、感じる。

 

私たちは、いつからお花を

 

だったり、

 

 

と描くようになってしまったのだろう。

 

 

本当に「それ」を見つめて、観察して、みた?

自分に問いかける。

私たちがこの世に生まれた時から元々存在していた

「これが常識」「当たり前」

というものを、疑いも無く信じ込まされる世の中。

 

 

今一度、今していること、

自分の本当の目で見つめてみる。

大人になると、いろんな体験をして、情報がいっぱいに入ってきて、

ついつい「知っている」  気になりがち。

そこから形成された自分という思考や性質から、先入観をはずす行為はなかなか難しいのかもしれない。

 

 

でも、なんにも知らない、純粋な目で「それ」を見つめられら、

世界がぐわ〜〜〜〜っと色鮮やかに広がっていくんだ。

「それ」を「それ」として見つめられるように、

今日もまた生きます。

 

1/fゆらぎ

 

「えふぶんのいちゆらぎ」
と読むよ。

小川のせせらぎ音とか木漏れ日のキラキラなど、自然界の中に多く存在している。規則的なものもあれば不規則なものも。

心臓の鼓動なんかもそうなんだって。

この「1/fゆらぎ」は、視覚や聴覚、私たちの五感で感じることができます。

 

私の場合は、今までロウソクの火の揺れが心地よくって、「見る」ことでの心地よさを感じていたけれど、ここ最近は自分のカラダを揺らして「ゆらぎ」を感じることをしています。

単純な動きの中に、ものすごい調和する何かが隠されているような気がする。

だって、その空間と、肉体という宇宙の波動と調和できているということは、
=違和感がなく=抵抗がなく=ストレスがない
ってことになる。ものすごい世界観だ。

この世に生きていると、刺激物や、物や人がいーーーーっぱいで、魅力的なものに溢れているから、外側外側〜に目がいってしまいがちになる。

だけれど、身体の内側に目を向けて、そこで流れている「ゆらぎ」なるものをじっくり体感してみたらどうだろう。

自分自身の生体のリズム(これも”1/fゆらぎ”)をじっくり感じることで、本来の自分に還れるような、そんな穏やかで優しい快感を味わえると思う。

 

先日、解剖学講師の野見山文宏さんの本をみていて、すんごーくふに落ちる素敵な言葉があった。

「カラダも地球も同じように自然が創り上げたものだから。その意味で、私たちのカラダは小宇宙であり、逆に言えば、地球規模で起こっていること、例えば社会や時代の変遷など、カラダを観察することで共通のフラクタルな出来事が見えてくるはずです。」

うんうんうんうん。
うなずきが止まらない。

私もこの世界で、違和感なく、なるべく自然と調和した状態で暮らしていきたいと思っている。

だってそれはとっても心地いいし平和だから。

 
いっぱい揺らいでいこう。

地球にアースする

 

ただ在ることに気づく

思考は自由であると知る

不自然なことはこの身に何もないということ

だからそのまんまでいたらいい

 

両方の座骨が地面と接地して、ぐーーっと根付いていく

地面と皮膚の境目がなくなったかのように地面からわたしの身体を真っすぐに身体の中心を突き抜けていく。

きっとこれがチャクラの通り道なんだろう。

 

 

スシュムナー

 

この感覚、余韻

なんにも支配されることないありのままの姿

とびらはもう開いているから、あとは明け渡して歩いてゆくだけ。

キーボー先生

 

チャクラワークTTCに行った時に、解剖学を担当してくれた渡部博樹ことキーボー先生。

キーボー先生は整体師もしていて(もっといえばDJやダンサーだったり肩書きモリモリ)その施術も受けることができた。

外れかけていた肩関節(まさかの事実)の調整と、肋骨の幅の拡張などをしてもらい、ものの15分でスッキリな身体になった。

今まで呼吸をする際に、ノドにつまりを感じていて、息を吸いきるのに違和感があるな〜とどこかで感じていた。

でもキーボー先生の施術で本当に息が通りやすくなって、オマケに肋骨の持ち上がりがスムーズで大きくなったような気がする。

呼吸好きなわたしが、もっと呼吸大好きになった。

きもちいい。身体がよろこんでる。

 

キーボー先生の授業は濃密だ。

身体のメカニズムはもちろん、私たちが外界から受けた刺激によってどうなるか、ヨガのアーサナをする際にどんな働きと影響があるかなど事細かに解説してくれる。肉体の魔法使いみたい。

わたしの伝わりづらい質問も上手く汲み取ってくれて即答してくれる。

プロフェッショナルを目の前に、本当に特別な時間を過ごせた。

先生は京都のトコ会館という健美サロンの院長をしている。

もし今度講座があればぜひ受講したい!と心に誓った。

 

キーボー先生どうもありがとうございました!

真栄田岬の思い出

 

チャクラワーク最終日の余韻にひたりつつ、この人たちとの別れはなんの惜しみや悲しみもなく、本当に自然にすんなりとだった。
まるで沖縄のカラッとした気候のようにさっぱりしていた。

そのまま5年前ヨーガに出会った時に、少しの間暮らしを一緒にさせてくれた大好きなファミリーのもとへ。

そこはヨガと同時に脳内クレンズというサロンもしていて、その施術中やった。たまたまお客さんに遭遇して、チャクラワークのお話に。
彼の友人もわたしの持っていたchakraworkの教科書を持っていたみたい。
すごい。世界に羽ばたいているchakrawork

その話の流れで、解剖学のキーボー先生から教わったチャクラ手当の施術を彼に行うことになった。

頭頂に丁寧に指をあてて、場所を確かめ、じーーーっと。

施術後、「青空が広がった!」と感動してくれた。

感じ方は人それぞれだけれど、この感覚を共有できたことがとっても嬉しい。

この日の思い出は、大切にしまっておこうと思います。

ヨガを初めてから5年。

赤ちゃんから少女になっていたゆあは、本当に心が澄んでいて、とっても魅力的な女の子になっていた。

ゆりさん、ゆあ、どうもありがとう💓

ずーーーっと大好き〜〜〜。

事故

 

今日はじめてバイパスで事故渋滞を経験した。

大型車の転倒。

普段15分くらいで行ける道を、1時間かけて向かうことになった。

結構大きな事故だったようで、後ろから何台も救急車と消防車がかけてきた。

トンネルの中で響き渡る救急車と消防車の音が、なんだか怖かった。

そんなことも忘れ仕事終わり同じ道を通っていくと、

「ウーーーーーーーーー」と消防車の音が聞こえる気がした。

耳をすましてみても、見当たらないし、あれ〜と思っていたら、同時に気づいた。

ただ身体が過去に経験したことを覚えていて、それを感覚として思い出していただけだった。

現実は事故もなければ、消防車も通っていない。

いわゆる幻聴だ。

身体ってすごいな〜

記憶ってすごいな〜

いい記憶ではないけれど、身体の賢さに感心した。